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あくび指南#2

『あくび・指南』イメージドローイング、2018、紙に墨

小林耕平 個展

「あくび・指南」

出演:山形育弘、瀬木俊|撮影:渡邊寿岳|デザイン:大西正一
字幕:岡田和奈佳|協力:ARTISTS’GUILD、須原額縁製作所

 

2018年4月21日(土)〜5月26日(土)
日月祝休廊
開廊時間:11:00-18:00 / 11:00-20:00(金)
オープニングレセプション: 2018年4月21日(土)18:00-20:00

 

オブジェクトやドローイングとテキストが相互に影響し合う軽妙なインスタレーションと、パフォーマンスや対話の 様子を記録した映像作品を構成し、会場全体を通して能動的な鑑賞を誘う作品で知られる小林は、近年では豊田市美術館や韓国国立現代美術館に作品が収蔵されるなど、国内外で高く評価されています。
本展では、東西に古くから伝わる寓話などから着想を得た新作のオブジェクト数点と、それらを小林とデモンストレーターが鑑賞した際の対話の記録を映像化した作品三点を合わせて発表いたします。

「物(オブジェクトやドローイング)や出来事(映像)を寓話の構造を借りながら鑑賞する方法を探る」、「既存の寓話を解体し、新たな寓話としての物や事を展示空間で起こす」ことをテーマに、寓話で示されるような教訓や秩序から解放され、全く新しい視点を得る展示を試みます。
今回、映像作品として発表される対話型の鑑賞記録では、『あくび指南』という古典落語の筋が参照されています。この噺は、江戸に私塾として開かれた“あくび指南所”に興味本位で出かけて行った主人公とその連れ、そして指南所の師匠の三者間で交わされる会話で成り立っています。そもそも“あくびを指南する”ことの胡散臭さと可笑しさに加え、退屈な師匠の講釈、上手くあくびができないと四苦八苦する主人公とのやりとりに、最後には連れの男が大あくびをかいてしまい、それを師匠がおおいに褒める…(あるいは思わずあくびをしてしまった鑑賞者が唐突に褒められる)というオチがつくというもので、多くの落語家に愛され、語り継がれてきた名演目でもあります。

また本展をイメージしたドローイングは、ロシアの作家イヴァン・クルイロフの寓話『白鳥と川魳(かわかます)と蝦(えび)』1を元に描かれたものです。
 白鳥と蝦と川魳が、荷物を積んだ荷車の運搬を引き受け、三匹が一緒に荷車につけられた。死に物狂いで引っ張っても荷車はびくともしない。積荷は彼らには軽いはずなのに。白鳥は雲に向かって飛び立とうとし、蝦はあとずさりし、川魳は水に引きずり込もうとする。彼らのうち誰がまちがっていて、誰が正しいのかはわれわれには判断はつかない。 しかし、荷車だけはまだそこに止まっている。

このように、古今東西で語られる寓話には“教訓”や“モラル(秩序)”が暗示されているのに対し、落語では教訓めいたものが提示されず、「鑑賞者が秩序の外へ放り出される感じ」がすると小林は言います。イメージドローイングでは、クルイロフの寓話の三匹を、落語『あくび指南』の登場人物三人に置き換え、あくびを指南する白鳥、あくびの練習をする蝦、それを見て涙をこぼしながら大あくびをする川魳として描いています。元の寓話から大きく離れ、全く新しい場面として生まれ変わっているというのに、私たちは違和感を抱くことなく、小林に誘われるままに別の物語を読み取ろうとしていることに気付きます。

これまでも小林は、固定観念を軽々と超える視線を誘発するような作品を鑑賞者に示してきました。今展ではさらに、「異なる秩序が部分的にでも“置き換わる”ことで、体系が崩れてしまったり、または新たな秩序が形成されたり、両局面あることが重要だ」との考察から、モノ/行為/言語の認識をめぐって生まれるものの可能性をさらに深く探る展示となります。

1, イヴァン・クルイロフ『完訳 クルイロフ寓話集』(岩波文庫) 1993/9/16 翻訳: 内海周平

 

『あくび・指南』 小林耕平

身の回りの“物” すべてに気を取られていたら生活は成り立たないだろう。“物” とは、家や道路、林や湖、電車に机にボールペンまでありとあらゆる視界に入るもののことである。日々を滞りなく過ごすために、それらの物は視界の中にはあっても、最小単位の情報として抵抗を少なくしているのだと思う。そんな中から不意に立ち現れてくる物。なんらかの抵抗がなければ意識に上らない。箪笥の角に足の小指をぶつけたり、お土産で頂いた物であったり、作品や人が目的を持って作った物など、何かしら人が関わることで均衡の取れていた世界が崩れる。そのとき物が格納していた記憶が人の前に立ち現れるのだと思う。

今回、いくつかの寓話や落語の演目、神話などを基にしてオブジェクトを作成した。それらの小噺は、“いつどこで誰が”という情報が、抽象的になるまで圧縮されており、話の筋書きも最小限で細部がほとんど無い。このような圧縮化は、場所や時代を超えて持ち運びをすることに適したフォルムなのだと思う。これらができた時期から遠くはなれた現代、“既製品” を組み合わせて作るオブジェクトによって、小噺の細部を解凍することを試みる。既製品は細部があるのにも関わらず、機能性を高めるためデザインが簡略化され、世界中へ持ち運ばれることを可能にした。小噺と似たような経緯によってフォルムが形作られてきたのだろう。

以下3つのキーワードから小噺を読み解き、オブジェクトを作った。
鑑賞者の方は、オブジェクトの鑑賞方法の指南を受けることで「あくび」を習得して頂きたい。

【相手のルールにのっかる】
参照資料1:《だくだく》古典落語
長屋に引っ越してきたものの、何ひとつ家財道具がなく格好がつかない。近所に住む絵の先生に、長屋の壁に家財道具の絵を描いてもらう。そこへ泥棒が入る。ところが、箪笥の把手に手をかけようとしても把手が掴めない。金庫から覗いている札束を掴もうとしても掴めない。「こりゃ全部絵だ!洒落のきつい奴だね。そっちがそのつもりなら、おれだって盗ったつもりになってやろう」

メモ:自分が騙されたにも関わらず、いやそもそも騙すつもりもない家主、相手のルールに乗っかって、自分も盗んだつもりになる=盗めないことを受け入れてしまう。

参照資料2 :《天才バカボンのつもり》天才バカボン
年始にバカボンのパパが先輩のところにお酒を持って挨拶にいく。先輩はこたつに座ってご馳走を食べていると言うのだが、こたつの上には何も無い。先輩曰く今年は「つもり」でいくことにしたのだと。パパと先輩は何もないこたつでご馳走を食べた「つもり」という問答がはじまる。独身のはずの先輩に妻がいる。妻も「つもり」子も「つもり」。パパが持参したお酒やお年玉はまんまと取られてしまう。そんな先輩にパパの反撃。殴ったつもりで本当に殴り、「何をするんだ」という先輩に「何もしてないつもり」と返す。先輩は追い込まれ狂ってしまうが、パパ「それは狂ったつもりなのか?」と問いただすと、本当に狂っていた。

メモ:狂ってしまうことに「つもり」も「本当」もないということ。

【わたしが消失する】
参照資料1:《粗忽長屋》古典落語
ある男が、浅草の観音様にお参りにくると。雷門のあたりで人だかりができている。覗いてみると行き倒れがある。みな故人を知らなくて困っている。その男は「あ、この男は熊のやろうだ!」長屋の隣同士で今朝も会ったばかりだと。いまから熊のやつを連れてくるから待ってろと、長屋へとって帰した男。熊を叩き起こし、お前が行き倒れで死んでいたことを話す。熊もわけわからず雷門までやってくる。男「おう当人を連れてきたよ」熊「どうも、とんだところで死にまして」遺体をふたりで担ぐと、引き取ってしまう。熊「でもなんか変な感じだ。まだ死んだ気がしねえんだよ」男「お前はそそっかしいからな。早く死んでることに慣れなくちゃいけねえぞ」「うーん、この死体は俺なんだろう」「じゃ、今それを担いでいる俺は、一体どこの誰だろう」

メモ:そそっかしい2 人のやりとり。そそっかしいとは、一般的な手順を飛ばししてしまうことで、本来繋がるはずのない頭と尻が繋がってしまう。

参照資料2:《ラカン派の間で流布している古典的なジョーク》
自分を穀物のタネだと思い込んでいる男が精神病院に連れてこられる。医師たちは彼に、彼がタネではなく人間であることを懸命に納得させようとする。男は治癒し(自分がタネではなく人間だという確信がもてるようになり)、退院するが、すぐに震えながら病院に戻ってくる。外にニワトリがいて、彼は自分が食われてしまうのではないかと恐怖に震えている。医師は言う。「ねえ、きみ、自分がタネでじゃなくて人間だということをよく知っているだろ?」患者は答える「もちろん私は知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているのでしょうか?」

メモ:粗忽長屋とは反対に、タネだと思い込んでいる人に「あなたは人間である」と信じ込ませる。しかしニワトリに食べられてしまうかもしれないという自分がタネであるイメージは、自分が人間であるというイメージと矛盾しない。

【人間以外のものを笑わせる】
参照資料1:《巨大なカエル》アボリジニ・ガナイ族の伝説
昔、ティダリクという巨大カエルがいた。ある夏あまりにも喉が乾き、そこらじゅうの水を飲み干してしまった。かしこの地に住んでいた他の動物たちは困ってしまう。そこでティダリクを笑わせたら、水があふれ出るのではないかと、動物たちはあの手この手でティダリクを笑わそうと試みる。はじめはすべての動物が「カエル跳び」をしてみせた。あまりにもそのことが面白いので自分たちが笑ってしまう。ティダリクは微塵も笑わない。エミューはバレーの踊りをして見せ、カンガルーはしっぽを叩いてリズムを取ると、ディンゴは二列になって行進した。エリマキトカゲはポルカを踊る。ワライカワセミはおかしな話をしたが、これも自分でむせるほど笑ってしまった。ティダリクはにこりともしない。そこへナムバンという小さなうなぎが彼らのところにやってくる。ナムバンは巨大カエルの前に来て、うなぎの言葉で水が無くったことへの怒りをぶつける。うなぎというのは話しだすと、話の内容によって体を捻じ曲げたりするものだから、ナムバンも怒りながらペラペラまくしたてていると、どんどんおかしな形に変形していくのだった。ついには自分の体で結び目を作ってしまった。するとティダリクは、突然腹を抱えて笑い出し、水が溢れ出す。この水はこの地方全域に流れ出し、湖や水路ではあふれ出るほどになった。

メモ:その土地に住んでいる様々な動物たち同様に、同じ生き物のように思える巨大カエルだが、実はまったく理解の及ばない存在である。笑わそうと試みるが、巨大カエルにとって「笑う」とは、われわれが考えている「笑う」ではない。
うなぎはカエルを笑わそうとは考えておらず、怒りを伝えようとしたのだった。しかしその怒りをカエルは受けるのではなく、うなぎの動きやフォルムの異様さに笑うのである。

参照資料2:《禅問答》
何年もかけ遠路はるばる中国の山奥まで悟りを求めて来た男。やっとのことで仙人のような風貌をした禅僧に会うことが出来、悟りを問う。禅僧は、男の顔の前に人差し指を差し出し、この指を摘んで引いてみろというような指示をした。男が恐る恐る僧侶の指を摘んで引くと、僧侶が屁をした。

メモ:指を引くことと、僧侶が放屁をすることの因果関係などわからない。真理から一番遠くにありそうな生理現象に結びつけることで、世界がひと回りし繋がったように思える。
また、僧侶が指を指した相手は男であるが、男にとってその指は、この私を示しているのか?この指を押すなり引くなりしろと指図しているのか?少なくとも2つの意味がその指には現れる。

出典:
赤塚不二夫(1995). 天才バカボン13 巻 竹書房文庫
Slavoj Zizek( 2006)How to read Lacan Granta Books United Kingdom. スラヴォイ・スジェク 鈴木昌(訳)(2008)ラカンはこう読め 紀
伊国屋書店
Jean A. Ellis (1995) This Is the Dreaming: Australian Aboriginal Legends HarperCollins ジーン・A・エリス 森秀樹監修 / 国分寺翻訳研究会(訳)
オーストラリア・アボリジニの伝説‒ドリームタイム 大修館書店